子育てするにはコンテンツが溢れすぎている
私は、子供達が20歳、30歳になった時に生きている世界がどうなっているのかな、と想像しながら子育てをしています。2040年、2050年くらいですね。
今世界が抱えている課題の延長線上になるので、割と考えがいのあるテーマとなるなーと思っています。自分もまだまだ現役で働いていますしね。
なので、たまにこのブログでも、子育てに直接関係はないですが、子供達の未来に関わる現状の課題、問題を取り上げて、考えたことをつらつら書いていこうと思っています。
今回は少子高齢化がテーマです。
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2022年度上期の日本の出生数は38万人*1でした。
年間を通して80万人を下回ると予測されています。
これは大変なことです。想定を上回る速さで少子化が進んでいます。
少子高齢化は日本が抱える最大の問題です。
このままでは20,30年後には経済規模の大幅な縮小やインフラ維持に問題が出て、日本は非常に住みにくくなる国になることが容易に予想できます。
私は日本が好きです。できれば子供たちにも日本で暮らしてもらいたいと思っています。でも、もしかしたらそれは叶わぬ夢になるかもしれません。少なくとも、日本のマーケットを対象にしたビジネスの多くは成り立たなくなるでしょう。自分自身がそもそも日本で生き抜けるかすら分からないほど事態は深刻です。
そんな危機を回避しようと少子化対策として様々な政策が日本で行われていますが、2004年を底として合計特殊出生率*2は2020年まで横ばいで進んでいます。
ですが、これは日本に限った話ではなく、先進国に共通した現象です。
以下の図1をご覧ください。
(図1 内閣府が発行している令和4年度少子化社会対策白書より抜粋)
2010年くらいから合計特殊出生率はどの国でも横ばいもしくは減少気味であることが分かります。
フランスやスウェーデンといった少子化対策が比較的成功していると言われる国でも出生率は1.6〜1.8くらいです。人口を維持するために必要と言われている2.07には届いていません。
さらに、このグラフには載っていませんが、福祉先進国と言われ子育てにあまりお金がかからないフィンランドで2019年度出生率が1.35まで下がり衝撃が広がりました。
この結果を見るに、政策が充実していても少子化を止められない現実があるかもしれません。
では、経済的な理由以外で子供を産まない理由はあるのでしょうか?何が原因でしょうか?
ここ10年くらいで出生率が上がらない理由として私が考えるのは、
「今の世の中は時間を消費して欲求を満たすコンテンツが溢れすぎていること」です。
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ネット時代になり、人間の一生の時間を使っても消費し尽くせないコンテンツが世の中溢れかえっています。
ネットゲームやYOUTUBE、動画配信サービスで際限なく時間を使い、
SMSでいいねを一つでも多く押してもらうために時間をかけて映える写真を撮りに行ったり、煌びやかな生活を送っているよう演出します。
承認欲求を刺激し人の時間を奪うことで経済は肥大化し、回ってきました。
こういった娯楽に通ずるコンテンツの消費は可処分時間の中で行われています。
可処分時間は24時間のうち睡眠や食事、仕事といった生活に不可欠な時間を除いた、自由に使える時間を指します。
式で表すとこう。
可処分時間 = 24時間 ー (生活に不可欠な時間)
この式のキモは生活に不可欠な時間に子育ての時間が含まれていないことです。
すなわち、我々は可処分時間を使って子育てをしています。
これが意味するところは、
子育ての時間とコンテンツ消費の時間は、同じ可処分時間という枠の中で時間を奪い合うライバルだと言うことです。
子育てとコンテンツ消費、どちらが選ばれるでしょうか?
その答えは、出生率の低下という形で現れているのかな、と思います。
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時間資本主義という言葉があります。
時間が最も貴重なリソースであると考え、時間対効果(タイムパフォーマンス、略してタイパ)の高さをなによりも重視する、という考え方です。
最近の日経新聞でも特集されていました。
倍速ニッポン(上)「タイパ」重視、楽曲イントロ半減: 日本経済新聞
動画の倍速視聴や0秒イントロの曲が増えていること、が象徴的です。
あまり待ちたくない、すぐに分かりやすい結果が欲しい。なぜなら、人生の持ち時間に対してこんなにも消費したいコンテンツが溢れているのだから…
そう考えると、子育てというのは最もタイパが悪いものと言えましょう。
子供が巣立つ約20年ほど、自分の人生を投入しなくてはならない。結果はすぐには分からない。そもそも見返りなんて要求する類のものではありません。
昔は子供は労働力として必要でした。百姓であれば田植えや収穫人員です。また、親の面倒を見るという役割もあり、子供は必須でした。子供を育てるというのはどちらかというと仕事に近かったと言えます。また、そんなに娯楽がなかったいう要因もあります。
人は生き方を選べなかったのです。
今は、自由に生き方を選べるようになりました。また、社会福祉が充実し子供がいなくても死ぬまで面倒を見てもらえるシステムができました。
このような状況下で、子育てとコンテンツ消費を可処分時間という同じ土俵で立たせてしまったら、全くもって子育てに勝ち目はないように思えます。
子供を育てることは何事にも変え難い幸福だ!それ自体に価値がある!という主張があるかもしれませんが、こんなにコンテンツが溢れ楽しい毎日を送ることができる時代を生きている若者に、その考えが響くことは少なくなっていくでしょう。
今の世の中は自分のために時間を使わせることが大切である、という価値観を植え付けることで、経済を回しているのです。社会が一体となってこの価値観を生み出していると言えます。
現在の価値観を作り出してしまったこと、が少子化の本質的な原因な気がします。
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では価値観を変えることでしか、少子化は解決しないのか。
今更、江戸時代のような考え方に戻ることは不可能でしょう。
生き方を自由に選べるようになったのは素晴らしいことです。これによって人類は豊かな生活を享受しています。なので、これは残しつつ打開策を考えたいところです。
どういう手があるのか、以下思考の流れを書いてみます。
可処分時間の式を再び見てみましょう。
可処分時間 = 24時間 ー (生活に不可欠な時間)
可処分時間はなるべくコンテンツ消費といった楽しみに残したいと考えると、
生活に不可欠な時間、の中から子育ての時間を捻出するしかない、という結論になります。
生活に不可欠な時間の中でも睡眠や食事の時間はあまり削れません。
そうすると必然的に仕事の時間を減らして子育ての時間を捻出する、ということになります。
あれ、待てよ、これって育児休業とか時短制度のことだよね。すでにあるじゃないですか。
仕事の時間を減らすということはその分収入が減るということなので、金銭的な補償が必要となります。
でもこの面の制度が最も進んでいるはずのフィンランドで出生率が下がっているので、金銭補償だけでは十分ではないのかもしれません。
仕事の中断はキャリアに影響しますので、仕事による自己実現に重きを置かれている世の中では金銭がもらえたとしても仕事の中断が何よりも損失、と考えるのは自然と言えます。
そうすると仕事の時間をただ減らすだけではダメなのか。
仕事と育児をはっきりと分けずに、育児が仕事にも役立つし、仕事が育児にも役立つ、という相乗効果を生み出せるような社会になるといいのかな…
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ということで個人的には、仕事の中に育児を取り込めないか、と考えています。
例えば育児メンターという考えを妄想していたりします。
が、長くなってきたのでこの話は別エントリーとして書きたいと思います。
ではでは